木太町の歴史(木太町の今と昔)
春日川橋の北の西土手から北方を見た風景で、遠くは女木島と男木島が望まれ、その手前に昭和25年に完成した木太塩田の真空式製塩工場の煙突が高々と見える。またその手前には収穫した麦わらが土手の道路脇に置かれ、人通りもなく昔ののどかな風景である。
現在の国道11号線が開通していないので、琴電志度線まで見通しである。
木太塩田の流下式塩田の写真で、この方式は藁屋根式に竹の枝を高い所から吊り下げ、ポンプで塩水を最上部から流し、これを昼夜繰り返し行うと塩水の比重が高くなって、かん水(食塩を多量に含んでいる水)となるものである。この方式の特徴は入浜式に比較して広い場所が要らず、従業員も少なくて、大量生産ができる点である。枝条(しじょう)架式塩田ともいう。
たて干は、遠浅の海中に、潮の満潮のときに長方形の網を立て、潮が引いた後、そこから沖に出られなくなった魚を捕らえる漁法である。写真で見られように投網(とあみ)や、手づかみで魚を捕らえられるので、大人も子供もその日を楽しみにしていた。この写真は琴電志度線の鉄橋の南側のたて干の様子で、年に1回ぐらい行われていたようである。昔の詰田川の水はきれいで、「ぼら」・「ちぬ」・「うなぎ」など多くの魚や「あさり」・「かき」が採れ、琴電鉄橋から北側の干潟では、海苔の養殖も行われていた。
旧の大橋が見られる貴重な写真で、手前の橋は元の石橋である。土橋はおおよそ10年ももたないうちに朽ちるので、安政5年(1858)石橋に架け替えられたと、石灯篭にその由緒が刻まれている。新しい橋は大正15年(1926)架設され、昭和56年(1981)改修工事伴い石灯篭も同時に撤去された。その後八坂神社境内で設置していたが、地元有志により平成15年現在の大橋の西南詰に再建した。
夷地区の盆踊り大会の写真で、昭和27年から30年ごろまで続いたようだ。木太小学校の運動場の西南の方で、櫓を組んで夜の更けるまで、子供たちは踊りを楽しんだようだ。毎年、ライオン通り、仏生山、川島、志度や屋島など各地の盆踊り大会の遠征にも出かけて、沢山賞を貰ってきている。お世話をしていただいた方は次の通りである。
発起人は小谷明義さん、トラックなどで舞台を作ってくれたのは藤井土建。踊りの先生は築地町から来ていたようで男の人。歌を歌ってくれたのは木村のおばさん。
空き地がまだ沢山ある。また家の数が少なく、マンションも少ない。
木太大橋の新旧の橋と、旧の詰田川橋が見える。現在は、詰田川橋は新しく架け替えられており、石橋も撤去されて橋の周辺の景色が変わっている。
現在の県道室町新田線・市道福岡三谷線などの道路が影もなく、木太南小学校(52年開校)・木太南公民館(61年完成)・木太公民館(54年完成)も見えない。